全国抗戦70周年


ホアイ  こんにちは、ホアイです。 

ソン  こんにちは、ソンです。今からちょうど70年前、つまり1946年12月19日に、フランス軍の侵攻を前に、ホーチミン主席は、全国民に向けて全国抗戦を呼びかけました。それをきっかけに、12月19日は全国抗戦の日にされています。

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ホアイ 今年は70周年で、12月いっぱいに全国各地で記念活動が盛んですね。それがどういうことなのか。今日のハノイ便りは、過去の歴史を振り返って全国抗戦の日についてお伝えしようと思います。

ソン はい。まずは、当時の状況についてもう少し詳しくご紹介しましょうか。

ホアイ はい。 19世紀以来、インドシナ半島にあるベトナム、カンボジア、ラオスの 3カ国はフランスの植民地支配下にありましたが、第2次世界大戦でフランスの力は弱まり、インドシナ植民地は崩壊しました。その前の1940年には日本軍が進駐しており、1945年3月、日本軍はクーデタによってフランス勢力を倒したんですね。

ソン 1945年8月15日、日本軍が降伏(こうふく)したことを利用してベトナム、ラオス、カンボジアの3カ国はそれぞれの方法で独立しました。ラオスとカンボジアは王国として独立しました。しかし、ベトナムでは、インドシナ共産党の指導者ホー・チ・ミン主席が中心となって1945年5月に結成された幅広い統一戦線 の「ベトナム独立同盟」(ベトミン)が1945年9月2日にベトナム民主共和国を樹立しました。

ホアイ しかし、1945年9月に復帰したフランスは3カ国の独立を認めず、まずフランスの空挺(くうてい)部隊と旧インドシナ連邦軍はサイゴンでクーデターを起こし、行政委員会を駆逐(くちく)してサイゴン市内の行政権を奪取(だっしゅ)しました。べトミン系の南部行政委員会はただちに抵抗委員会を組織し抵抗運動を開始しました。その後フランスの増援部隊が到着しますね。1946年1月までにメコンデルタの主要都市はことごとくフランス軍に奪われ、1946年3月には南部ベトナムを切り離してコーチシナ共和国を成立させました。

ソン 北部ベトナムでは1946年3月ベトナム・フランス暫定協定などにより、ベトナム民主共和国のフランス連合内独立が認められ、1946年3月フランス軍はハノイに無血(むけつ)入城(にゅうじょう)しましたが、1946年4月のダラト会議、1946年7月のフォンテンブロー会議では、南部を含む全ベトナムの統一はフランスによって拒否されます。

ホアイ 1946年12月18日午後、ベトナムを再び侵略しようとするフランス軍司令部はベトナム民主共和国軍に対し、 武器解除の最後通牒(つうちょう)を送りました。これに対し、ベトナム共和国軍は徹底抗戦を決定し、翌日の12月19日20時4分に、フランス軍に先制攻撃を行います。

ソン そういうきっかけで、12月19日は全国抗戦の日にされているわけですね。

ホアイ そういうことですね。12月20日、ホーチミン主席はフランスに対して全面抗戦宣言を発表し、全国民に「長期戦になるかもしれない」と訴えました。

ソン その内容を言いますと、「我々は平和を望み、譲歩した。しかし、我々が譲歩すればするほど、フランス植民地主義者は再び我が国を支配しようとして、侵略を続けている。我々は全てを犠牲にしても、決して祖国を失ってはいけない。決して奴隷にはならない。皆さん、銃や(つるぎ)、ひいては(ぼう)(くわ)さえも使って、フランス植民地主義者と闘おう」と呼びかけたのです。

ホアイ その呼びかけに応じて、ベトナムの人々は全国各地でフランス軍と戦いました。その中で、ハノイ中心地は戦場となりました。当時のハノイ軍区の参謀副長官を務めたグエン・チョン・ハム大佐は今年95歳ですが、当時の思い出をはっきりと覚えています。ハム大佐の話です。

(テープ)

「ホーチミン主席は全面抗戦を宣言して、祖国を守るために全国で立ち上がるよう呼びかけました。私たちはハノイを守る兵士として、ホーチミン主席の呼びかけに応じて決死の覚悟でハノイを守りました。その精神により、私たちは主体的に戦いました。」

ホアイ 兵士たちは「祖国の存在のための決死」 というスローガンを掲げ、決死の覚悟で戦いました。当時は、戦車も近代的な兵器もなかったベトナム軍は、フランス軍の戦車に対し、簡単に作られた棒状の対戦車兵器を使いました。その兵器を使ったのは決死隊です。なぜか?敵の戦車を破壊するため、兵士たちは、この兵器を抱きながら、戦車にぶつかるのです。

ソン この対戦車兵器を持っていて敵の戦車を攻撃しようとする兵士の姿はハノイを守る戦いの象徴となりました。

ホアイ ベトナム軍とフランス軍は通りの家々(いえいえ)や、それぞれの街角(まちかど)で激しく交戦しました。先ほどのハム大佐は当時の戦いについて次のように思い出しました。

(テープ)

「それぞれの家の間の壁に穴を開けて戦いました。敵は迷宮(めいきゅう)に入るようで、効果的に戦えなかったです。これは都市のゲリラ戦でした。私たちの兵力はフランス軍とは比べ物にならなかったですが、フランス軍に大きな打撃を与えました。」

ホアイ この戦いでは兵士たちはもちろん、年齢や仕事を問わずハノイ市民の多くが参加しました。それぞれの市民が兵士であり、それぞれの家は要塞(ようさい)となり、それぞれの通りは最前線となりました。圧倒的な兵力のフランス軍はハノイのどこに行っても襲撃されました。

ソン それは全人民の力を結集する人民の戦争です。女性も子供さえもいろいろな形で戦いに参加したんですね。当時、高校生だったズオン・ティ・トアさんは次のように話しています。

(テープ)

「70年経ちましたが、あの日陣地へ行って、歌を歌ったり、兵士の服のボタンをつけたりするなど彼らを激励したことは今もなおはっきりと覚えています。そして、通りの向こうにあるフランス軍の陣地へ向けてフランス語で歌を歌いました。家へ帰ってくださ~いというふうに呼びかけました。それは忘れられない思い出です。」

ソン フランス軍は、圧倒的に強い兵力で数日間でハノイを支配するつもりでした。でも、ベトナム軍兵士とハノイ市民の勇敢な対抗戦を受けたので、60日後にもハノイを支配しました。

ホアイ こうした戦いは1946年12月19日から1954年8月1日まで続く第1次インドシナ戦争のスタートです。戦いの勝利は、ベトナム国民に9年にわたるフランスとの全面抗戦の勝利への信頼を与えたと評されていますね。では、おしまいに一曲お送りしましょう。

(曲)

今日のハノイ便りは、第1次インドシナ戦争の口火を切った全国抗戦の日ついてお伝えしました。それでは、今日はこのへんで。

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