「上空ハノイ・ディンビェンフー作戦」という歌

1972年12月18日から29日にかけて、ハノイは、アメリカ軍の大規模な空襲を受けました。合わせて一千機もの軍用機が動員され8万トンの爆弾が投下されました。ハノイ市内の3分の一が破壊され、1300名が死亡しました。アメリカは「ベトナムを石器時代に戻す」と豪語し、ベトナム北部に計16万回の出撃を行ったと言われています。ベトナム北部は、対空砲火を浴びました。当然撃ち落とされる米軍機も数多く、北部は4千機の米軍機を撃墜したと発表しています。

ハノイ市とハイフォン港湾都市の防空部隊は1972年12月18日から29日にかけて、アメリカ軍による攻撃に強く抵抗しました。これにより、アメリカの多くの戦闘機は撃墜されました。アメリカ軍の多くのパイロットが捕えられました。1954年にベトナム軍は北部ディンビエンフ地区でフランス軍に攻撃を加え、勝利を獲得しました。

そうした事態の中、作曲家ファントェンさんは「上空ハノイ・ディンビェンフー作戦」という歌を作曲しました。

(メロディー)

「上空ハノイ・ディンビェンフー作戦」という歌 - ảnh 1
作曲家ファントェン

お聞きいただいた歌は「上空ハノイ・ディンビェンフー作戦」でした。40年前の記憶を回想するファントェンさんは次のように語っています

(テープ)

「1972年12月19日に、ハノイはアメリカ軍の大規模な空襲を受けました。20日、バクマイ地区にあるベトナム放送局の支局も破壊されました。私の家も倒れ、ピヤノも本も燃えました」

当時、ハノイ全町は爆弾に沈んでいましたが故郷を離れるハノイの人は誰もいなかったです。作曲家ファントェンさんは次のように語っています。

(テープ)

「ハノイの人々は特別な考え方を持っています。当時、多くの家々は破壊されましたが他の地方に非難しおうとする人も居なかったです。大きな被害を受けたカムテン通りの全ての家は門を開けて、病院は患者をそのまま迎えました。私はそうした光景をみつめて、感動しました」

(メロディー)

作曲家ファントェンさんの作曲による「上空ハノイ・ディンビェンフー作戦」という歌はベトナムの声放送局の放送番組で12月

29日の夜中で放送されました。ファントェンさんは次のように語っています。

(テープ)

「1954年にベトナム軍は北部ディンビエンフ地区でフランス軍に攻撃を加え、勝利を獲得しました。1972年12月、ハノイ市の司令部は1954年のデンビエンフ作戦の勝利を生かして、アメリカ軍による攻撃を抵抗するよう指示しました。その夜に、私の頭の中で「上空ハノイ・ディンビェンフー作戦」という歌のメロディは織りあがりました。ハノイは戦争の暗い日々に潜り抜けましたがラジオで勇気な歌声が響き割りました。」

ファントェンさんはこのように語りました。

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