ハノイ上空・ディンビェンフー作戦の忘れがたき記憶

1972年12月19日午前、アメリカ空軍はハノイ市のメーチ地区にあるベトナムの声放送局の送信所に大規模な爆撃を行いました。

アメリカ軍による空爆の前に判断したメーチ送信所の60人の幹部、技術者は放送設備を安全な場所に移動させました。当時の放送支局での民兵の一員であったズオン・ズアン・チョォンさんは次のように語りました。

(テープ)

「私たちはアメリカ軍による爆撃の激しさを十分に認識しました。二人一組になって、一日中当番しました。K44銃を肩にかけて、F-111戦闘機を打ちました」

ハノイ上空・ディンビェンフー作戦の忘れがたき記憶 - ảnh 1

1972年12月の12日間、ハノイの空はアメリカ空軍の爆撃による火に染まりました。ベトナム声の放送局は毎回、当時の戦いの情況についての放送を伝えました。国際世論もベトナム民族の存亡に注目しました。当時のアメリカ戦闘機が来るのを告げるサイレン音が響き渡るハノイの空の下、放送局の記者、編集員、アナウンサーは昼夜を問わず、時事ニュースを伝えました。当放送局のアナウンサーであったキム・コク ( Kim Cuc) さんは次のような思い出を振り返りました。

(テープ)

「当時、一部の記者と編集員、アナウンサーがハノイに残りました。私たちは24時間にわたり、仕事をしました。通常、私たちのグループは21人でしたが戦争により、7人で当番をしました。アメリカの戦闘機はベトナムの声放送局と通信社の本部に爆弾を投下しました」

当時のアナウンス内容は、「皆さん、アメリカ戦闘機がハノイに近づいているので、厳重に警戒せよ」というアナウンサーの言葉が爆弾の煙に沈むハノイの上空に響き渡りました。その言葉を聞いた数千人の市民は爆弾を避けるため、あわてて防空壕に入りました。警戒警報のおかげで、ハノイの多くの人々は死を免れました。先ほどのキムコクさんの話をお聞きください。

(テープ)

「私たちは放送局の正門で時事ニュースがくるのを待って、そして、受け取るとすぐ、スタジオで録音をしました。食事もせず、ハノイのフランス大使館がアメリカ軍の空爆を受けたというニュースを受けて、すぐ仕事を着手した日もありました。バーチュウ通りにある放送局のスタジオに座っていた私はカムテン通りに落とされた爆音が聞こえた時もありました。」

ハノイ上空・ディンビェンフー作戦の忘れがたき記憶 - ảnh 2

続いて、当放送局の音楽編集部の作曲家、ファムトゥエンさんのお話をお聞きいただきましょう。

(テープ)

「当時、当放送局で行われた会議で、放送局のチャンラム総裁は「アメリカ軍の攻撃にあくまでも反撃するように」という中央軍事委員会の指導を知らせました。「ハノイ上空デェンビェンフー作戦」という言葉には何か誇らしさが感じました。そのため、その夜、私は「ハノイ上空デェンビエンフー作戦」という歌を作曲しました」

(歌のメロディー)

ハノイ上空・ディンビェンフー作戦の忘れがたき記憶 - ảnh 3

                                                               作曲家ファム・トゥエン


作曲家ファム・トゥエンによる「ハノイ上空デェンビエンフー作戦」がベトナム全国に響き渡りました。これにより、ベトナム北部、中部、南部の人々は心を一つにして、アメリカ軍に打ち勝つ意志を固めました。

 

 

ご感想

他の情報