総統官邸の地下壕―ハノイ上空デェンビエンフー作戦の遺跡

総統官邸の地下壕―ハノイ上空デェンビエンフー作戦の遺跡 - ảnh 1

ユネスコにより世界遺産として認定されている首都ハノイのタンロン城跡の中には1972年12月のハノイ上空デェンビェンフー作戦の遺跡である 総統官邸の地下壕が保存されています。ここ数日、ハノイ上空デェンビェンフー作戦の勝利にあたり、この地下壕の遺跡を訪れる観光客は非常に多いですが、観光客の中にグェンバンニン少将の姿がありました。グェンバンニン少将は当時の総統官邸の地下壕での仕事様子を振り返り、次のように語りました(テープ)

(ニンさんの肉声)

1972年12月の12日間、ハノイ上空におけるアメリカ戦闘機との戦いは激しかったにもかかわらず、30平方メートルの広さを持つその地下壕はアメリカ空軍のB52戦闘機の信号及び北部地域、インドシナ戦場の戦事に関するすべての情報通信を受信、提供する場であり、ハノイ防空空軍部隊の総参謀部の本部でもありました。グェンバンニン少将は次のように語りました。

「12月18日午後4時に、戦事情報が届けられました。フンテタイ副総参謀長は 共産党中央組織委員会のレドクトー委員長がハノイに着いたことを通知しました。同日18時20分にアメリカのB52戦闘機の信号を告げました。そうした3件の情報を受けて、我々は緊急会議を開き、アメリカ空軍がハノイで空襲を行ったことを認めました。19時に、私は報告書をバンティエンズン大将に上程し、その直後、アメリカ空軍による空襲より25分前に警戒サイレンを鳴らすことを決めました。それは正しい決定でした。これにより、アメリカ空軍によるハノイ空襲はベトナムにとって驚きではありませんでした」

総統官邸の地下壕―ハノイ上空デェンビエンフー作戦の遺跡 - ảnh 2

1972年12月に アメリアのB52戦闘機の空襲を警戒するサイレンがハノイの空に響き渡りました。総統官邸の地下壕遺跡の空間で、ニン少将は戦争時代の思い出を回想し、次のように語りました。(テープ)

「これはハノイにある国会議事堂の屋根に置かれたサイレンです。当時、ハノイ市内には15個の警戒サイレンがありました。この壕の中から私はB52戦闘機を警戒するサイレンのボタンを押した最初の人でした。」

ニン少将の話でした。

1972年12月の12日間に総統官邸の地下壕の中で、ベトナムの将軍、士官、兵士はアメリカ空軍の戦闘機を撮影地図上で撮影スポットを確認するため、昼夜を問わず、仕事に力を注ぎました。当時にアメリカの戦闘機の飛行地図を確認した兵士であるファムティタインさんは次のように語りました(テープ)

「当時、この小さな部屋で、私はいつも24時間にヘッドフォンをかけていました。防空レーダーが信号を発信する場合、私は地図に飛行路を鉛筆で記しました。

戦闘機がハノイから50キロ離れた所に飛んで込むと、サイレンが鳴りました」

タインさんの話でした。

総統官邸の地下壕―ハノイ上空デェンビエンフー作戦の遺跡 - ảnh 3
当時、総統官邸の地下壕の安全の保障を目指すため、この壕を建設した時に、ベトナム人民軍の総参謀部はハノイ上空デェンビェンフー作戦担当局の2階を破壊させ、この壕を偽装させました。壕の設計図も特別なものです。 60,2平方メートルの面積を持つこの豪は3つの部屋に分けられ、クーラー、消毒施設などの当時の近代的な設備が整えられました。この壕の設計者であったクァンホン大佐は次のように語りました。(テープ)

「コンクリートで作られたこの豪は3階、2重の扉があります。特に、外側の扉は爆弾を防ぐため非常に厚くなっています。この豪は通常の爆弾、原子爆弾、化学爆弾を防ぐことができます。」

クァンホン大差はこのように語りました。

40年が過ぎ去りましたがハノイ上空デェンビェンフー作戦の輝かしい勝利を描いた総統官邸の地下壕の遺跡が残っています。グェンバンニン将軍をはじめとするベトナム人民軍の総参謀部が使った電話、地図、茶器、ヘッドフォンなどの様々な現物はそのまま展示されています。時は過ぎ去りました、その壕の中に展示されているすべての現物や写真は1972年12月のベトナム民族の輝かしい歴史ページを証明するものとなっています。

ご感想

他の情報