ある愛国資産家のお婆さんが残したもの

(VOVWORLD) -ベトナムの愛国資産家チン・バン・ボ夫人のホアン・ティ・ミン・ホさんが11月5日に死去しました。104歳でした。
ある愛国資産家のお婆さんが残したもの   - ảnh 1    ホお婆さん=internet

夫人は亡くなったものの、全てのベトナム人に対し国の為に貢献した精神、革命事業とホーチミン主席への強い信頼を残しました。20世紀の初頭に、ハノイ市内の有名な愛国儒教の家庭に生まれたホお婆さんは、幼い頃から、父親のホアン・ダオ・フォンから、愛国心を培われました。夫で資産家のチン・バン・ボの愛国の家庭の出身です。ホお婆さん夫妻は、結婚してからシルクの経営で生計を立ててきました。生前、ホお婆さん夫婦は常に恵まれない人々を支援してきました。また、革命事業に対しても、多大な貢献をしてきました。

ある愛国資産家のお婆さんが残したもの   - ảnh 2     ホお婆さん夫婦=internet

1945年9月2日にベトナム民主共和国が樹立された直後に、国家機関組織、大規模な飢饉状態の解決、自然災害による影響の克服などで金銭が必要とされていました。しかし、当時、ベトナム国家は誕生したばかりなので、財政難に陥っていました。こうした困難な状況を解決するために、ホーチミン主席は、全国民から政府に金銭や物質などの寄付を受け取る「独立基金」を提唱しました。その基金の一環で、「貴金属寄付運動」が全国各地で広がりました。この運動は、数多くの人民各層、特にホお婆さん一家を含む実業家層の協力を集めていました。ハノイ市内ハンガン通り48番地でシルクの販売店を営むホお婆さん一家は、大量の金属を寄付した他、ハノイ市の多くの実業家に金属の寄付を働きかけました。それだけでなく、さらに1945年のベトナム飢饉の中で、飢えた人々に物的支援を行ってきました。ホお婆さんは「金属は本当に貴重なものですが、国民のため、国のためというホーチミン主席の心は、金属よりも貴重だった」という気持ちを述べていました。

あの時の国の困難な状況を思い出したというハノイ市民の90歳のお爺さんの話です。

(テープ)

「当時、全国民は国家とホーチミン主席に絶対の信頼を寄せていましたよ。これは自発的な気持ちでしたね。だから、人々はどんなに困難な状態であっても、誰もがホーチミン主席の呼びかけに積極的に応えていました。ホお婆さん一家が政府に大量の金属を寄付した情報を聞いて、私たちはとても感動しました。これは、祖国に対するベトナム人民の気持ちを表しましたよ。」

ホーチミン主席がベトナム北部ビェットバックの革命根拠地からハノイに戻った時、党中央委員会は、1945年8月25日から30日にかけて、ハノイ市ハンガン通りにあるホお婆さん一家の住宅をホーチミン主席が宿泊する場所に選びました。ここで、ホーチミン主席はベトナム民主共和国の誕生を告げる独立宣言案などを起草しました。その時に、ホお婆さんは、自分の家に宿泊しているおじいさんがホーチミン主席ということを知りませんでした。1945年9月2日までに、ホーチミン主席がバーディン広場で独立宣言を読み上げるのを見たとき「私が、毎日、食事を作ってあげたあのお爺さんはホーチミン主席だったのか」ということを初めて知りました。後に、ホお婆さん一家はハンガン通り48番地の家を国家の歴史遺跡として国に寄贈しました。現在でも、この家は、ホーチミン主席が革命活動の為にこの家に住んでいた時の記念館として存在しています。

ベトナムの歴史学者の話しです。

(テープ)

「ホお婆さん一家は愛国資産の家庭であり、長年にわたって経営活動を行うと共に、国の経済発展に大きく貢献してきました。これは、経営面でのお手本となっていますね。現在、我々は実業家に工業経済発展を激励していることから、ホお婆さん一家をお手本として広げる必要があります。」

これまでに、ホお婆さんと夫のボさんは、祖国の為に多大な貢献をしてきたことで、ベトナム政府から複数の貴重な勲章、表彰状を授与されています。ホお婆さんの家の6番目の嫁さんの話です。

(テープ)

「お母さんにとって金銭は重要なものではなっかったと思います。生前、お母さんは、『あげてしまったものを取り戻したくはない。あげたことで子や孫へのお手本になりたい。』と言ったことがあります」

ハノイ市行政当局は、市内にある通りの名前を資産家「チン・バン・ボ」と名付けることで一致しています。これは、ホお婆さんと夫のボさん一家の国へ貢献したことに対するベトナム国家が認めた表彰です。

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