ハノイ上空ディエン・ビエン・フー作戦

ハノイ上空ディエン・ビエン・フー作戦 - ảnh 1

1972年12月の半ばから12日間にわたってハノイで行なわれたアメリカ軍の空爆に対するベトナムの抵抗は勝利を収め、アメリカ軍のB52戦略爆撃機による攻撃を敗北させました。この勝利はベトナム民族の本領と知恵を立証し、アメリカ帝国主義者との戦い、いわゆるベトナム戦争の基本的な変化につながり、1975年の南部解放と国家統一事業に重要な貢献をしたとみられています。

ハノイ上空ディエン・ビエン・フー作戦 - ảnh 2
40年前の1972年12月18日から12日間に渡って、アメリカ軍はベトナム北部への継続的な空爆作戦・ラインバッカー2作戦の一環として、ハノイ空爆を行ないましたが、ベトナム軍隊は前もって迎撃計画を準備しました。1965年に、アメリカはホーチミン市のベンカット地域の空爆を開始したことを受け、ホーチミン主席はアメリカがB52爆撃機を利用し、北部、とりわけハノイを空爆すると予告した上で、防空・空軍部隊に対し、対応姿勢を整えるよう指示しました。この指示をしてから、ベトナム人民軍は防空・空軍部隊の育成に力を入れ、兵器や物資を準備するとともに、B52爆撃機との対抗計画を立てました。防空・空軍部隊共産党委員会元副委員長であるグエン・スアン・マウ中将は次のように語りました。(テープ)

「防空・空軍部隊は1968年からB52爆撃機の抵抗に関する記録書を作りました。1972年11月下旬、当時のバン・ティエン・ズン参謀総長と参謀部の指導者が最良のB52 爆撃機の抵抗策を承認した後、ボーグエン・ザップ将軍が承認しました。これに従って、私たちは主体的にB52爆撃機の迎撃(げいげき)計画を作成しました。」

マウ中将はこのように語りました。

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12日間にわたった空爆の中で、ベトナム軍隊は創意工夫を凝らし、地対空誘導ミサイルSAM2などをB52爆撃機の攻撃に創造的に活用し、猛反撃しました。B52爆撃機4機を撃墜した旅団77号の元団長ディン・テー・バン大佐は次のように話しました。

(テープ)

「当旅団の任務はバーディン地区の防衛でした。私たちはB52爆撃機の弱点を詳細に研究しなければなりませんでした。例えば、B52爆撃機は10キロの高さを飛行しますが、これはミサイルが命中する最適の高さです。また、B52爆撃機は大きくて重いので、レーダーが発見しやすい信号を発します。更に、B52はF4超音速(ちょうおんそく)戦闘機とともに出撃することも分かり、遠くからでもB52の信号を受信できました。」

バン大佐はこのように話しました。

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アメリカ軍のB52爆撃機による空爆を敗北させたことはベトナム軍隊と国民の作戦能力を示しました。B52爆撃機が夜間の絨毯(じゅうたん)爆撃で強力な電波妨害装置を装備され、100発以上の無誘導爆弾を満載して連日出撃することができることも知られています。それで、ベトナム空軍は低空飛行と高空飛行、そして突撃を周到に練習しなければなりませんでした。MiG21迎撃戦闘機の飛行士ブ・ディン・ラン氏は次のように語りました。(テープ)

「B52爆撃機の反撃にミグ21を活用した国はありません。12日間にわたり、アメリカ軍はハノイ市内の空港を爆撃し、大きな被害を与えました。私たちは残された短い滑走路(かっそうろ)を使って、離陸し、戦闘に臨みました。ミグ21の参戦により、ミサイル部隊などの戦闘に有利な条件を作り出しました。」

ラン氏はこのように語りました。

当時、ベトナム軍隊は地対空誘導ミサイルSAM2をはじめ、兵器の改良に尽力し、B52爆撃機を撃墜する決意でした。旅団57号の元団長グエン・バン・フエット中将は次のように述べました。(テープ)

「B52爆撃機を迎撃する兵器としてミサイルSAM2しか擁しませんでした。しかし、この兵器の改良に取り組み、機能を高めました。ベトナムは旧ソ連の専門家の援助を受け、SAM2の弱点を克服することができました。」

フエット中将はこのように述べました。

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ハノイ上空ディエン・ビエン・フー作戦で北部の軍隊と住民は緊密に協力し、戦闘に励んできた結果、34機のB52爆撃機を含め、多くの各種戦闘機を撃墜しました。これにより、アメリカは北部空爆の中止とパリ和平協定の締結を認めざるを得ませんでした。40年経った現在も、ハノイ上空ディエン・ビエン・フー作戦の勝利の価値は生きており、ベトナム歴史における重要な出来事として輝いています。

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