70年前の1945年の8月、北部山岳地帯にあるトェンクアン省ソンズオン県タンチャオ村から「総蜂起」命令が全国各地に下されました。当時、およそ2千万人のベトナム国民が立ち上がり、政権奪取しました。
革命根拠地タンチャオ村の一角
その数ヶ月前の1945年5月21日、ホーチミン主席は北部山岳地帯にあるカオバン省からトェンクアンへ戻り、革命運動を指導しました。ホーチミン主席は当時タンチャオ村を解放区の都として選び、タンチャオ村のベトミン=独立同盟会の主任のグェン・ティン・スさんの家に住んでいました。スさん一家の嫁であるホアン・ティ・マイ( Hoang Thi Mai) さんによりますと、ホーチミン主席がこの家に住んでいた頃、仕事を終えると、スさんと共に、村にある各家族を見舞い、お年寄りと子供たちに贈り物を手渡しました。当時、村人はホーチミン主席をケーおじさんと呼んでいました。マイさんの話です。
(テープ)
「夫の親の話によりますと、ホーチミン主席は会議に参加するため、1週間ここに泊まりました。当時、私はホーチミン主席という人をまったく知らなくて、ケーおじさんしか知りてませんでした。ここに滞在していた時、ホーチミン主席は病気になりましたが、私たちの家族は薬をあげると、治りました。私たちはご飯と鶏肉などをホーチミン主席にあげました。当時、私の家族は貧しいでしたが、革命を支援しました。」
1945年8月に、ベトナムを統治していた日本軍への戦いが激しくなる最中、ホーチミン主席は臨時革命政府を樹立するため、国民大会を急いで開催するよう指示しました。タンチャオ村に住むホアン・ゴク( Hoang Ngoc) さんは当時のことについて、「その時、私は10歳だった。国民大会に参加した代表たちは私の家や周辺の家に泊まった。村人だれもが貧しかったが、米、鶏、および、牛1頭を集めて、革命臨時政府の誕生を祝った。」というゴックさんのお話です。
(テープ)
「私たちは少数民族テイ族の人々で、フランス植民地主義者の支配下に置かれた時代に住み、生活はとても苦しかった。党とホーチミン主席の話により、革命活動に参加しました。私たちは革命を支援するため、全力を尽くしました」
ノン・ティ・モ さん(右)
一方、今年90歳を越えたノン・ティ・モ ( Nong Thi Mo) さんは目が悪くなり、耳も遠くなりましたが、1945年にタンチャウ村に泊まっていたホーチミン主席と革命幹部に関する記憶をはっきり覚えています。当時、モさんは村にある他の女性らと共に、革命の幹部に供給するため、米を搗きました。当時、ホーチミン主席は「米を搗くことも敵軍との戦いに参加する。ですから、兵士がいっぱいに食べると敵軍に戦うことができる」といいました。モおばあさんの話です。
(テープ)
「国民大会が開催されていた時、私は大会のため、ご飯を作りました。私たちには8人いました。ご飯を作ってから、そこにいるすべての人々と共に食べました。」
タンチャウ村の人々はホーチミン主席をはじめ、革命活動を熱心に支援してきました。タンチャオ村からホーチミン主席は全国の総蜂起を指導しました。これは8月革命の勝利への道に大きく貢献したのです。