パリ協定の意義

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パリ協定の交渉の様子

すでにお伝えしましたように、1973年1月27日午前11時(日本時間午後7時)、「ベトナムにおける戦争の終結と、平和回復に関する協定」(ベトナム和平協定)が、パリ国際会議センターにおいて、ベトナム民主共和国、南ベトナム臨時革命政府、アメリカ合衆国、ベトナム共和国の4者によって調印さ れ、パリ和平協定が翌28日に発効しました。

この協定の締結に至るまでの交渉期間は5年にわたって行なわれ、かつてない最長のものとなりました。この間、202回の公開会議、24回の個別会議が行なわれてきました。パリ協定の交渉はベトナムとアメリカとの機知に富んだ戦いであると言われてきました。

ベトナム外務省のファム・ビン・ミン大臣は「この協定はベトナムの軍事、政治、外交面での戦いの総合的な勝利である」と明らかにし、次のように語りました。

「テープ」

「パリ協定の調印に向け交渉は機知に富んだ戦いでありながら、本領との戦い、及び謀略(ぼうりゃく)の戦いでもありました。パリ協定はベトナム民族の戦いの正義を示すものでありながら、アメリカに対してベトナム民族の独立、主権及び統一を尊重するよう求めた初の国際法文書でもありました。」

ミン大臣はこのように語りました。

パリ協定はアメリカが撤兵し、南ベトナムでの戦争停止を受け入れるという最高の目標を達成するために断固として戦っていたのです。

当時のベトナム民主共和国代表団のメンバーであったチン・ゴク・タイ(TRINHNGOCTHAI)さんは次のように語りました。

「テープ」

「当時、ベトナム戦争に関するパリでの交渉は国際世論の注目を集めました。軍事、政治、外交面におけるベトナムとアメリカとの戦いは当時の時代の基本的な矛盾でしたから。そのため、パリ協定の締結は第二次世界戦争に次ぐ世界の長くて激しい戦争の終結に有利な条件を作り出したものです。」

タイさんはこのように語りました。

この交渉はアメリカの外交とベトナムの草の根外交との機知(きち)()んだ(たたか)いでした。

当時の南ベトナム共和国臨時革命政府代表団長であったグェン・ティ・ビン元国家副主席は次のように語りました。

「テープ」

「パリ協定の締結に向け交渉に対して、アメリカは南ベトナムを侵略しましたので、その侵略を阻止すべきで、当然なことでした。これにより、アメリカは無条件でベトナムから軍を撤退させなければなりませんでした。

ビン元国家副主席はこのように語りました。

パリ協定はベトナムの民族解放事業だけでなく、ラオスとカンボジアの近隣国の民族解放上に対する極めて重要な意義を持つものでした。同協定は東南アジア地域の局面に新たなページを切り開きました。これにより、アメリカ軍はインドシナと東南アジア地域から撤退しました。そして地域の和平、安定が確立されました。

パリ協定の締結を成功させるため、ベトナムはロシアや中国、社会主義諸国、非同盟運動加盟国、平和を愛するアメリカ人及び世界の人民の支持を得てきました。これは民族の力を時代の力と、国の力を国際世論の力と、国家外交を草の根外交と結び付けたことの外交の力を示すものです。

当時のベトナム民主共和国代表団の一員であったチン・ゴク・タイ(TRINHNGOCTHAI)さんは次のように語りました。

「テープ」

「各民族の戦争の歴史において、ベトナムのような自らの民族解放事業に対する世界の人民の支持を得た運動を作り出した民族はなかったと言えます。特に アメリカ国内では、ベトナムを支持する反戦運動がありました。これはアメリカの侵略政策に対する圧力を与えており、ベトナム国民に対する大きな鼓舞でした。」

タイさんはこのように語りました。

あれから40年の歳月が経ちましたが、パリ協定の価値は今日なお残っています。ホーチミン時代の芸術的外交を示すものでしょう。

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