戦時中、VOV放送を絶やさないよう力を尽くしたスタッフ


山崎
  こんにちは。およそ1カ月ぶりのごぶさたです。山崎千佳子です。 

ソン  こんにちは、ソンです。山崎さん、お帰りなさい。日本に一時帰国していたんですよね?

山崎 はい。木曜のおしゃべりタイムでもお話したんですが、日本の夏も暑かったです。8月下旬からは涼しくなってきて、長袖で過ごしていました。

ソン 9月ももう一週間が過ぎようとしていますが、明日、9月7日は何の日か知っていますか?

山崎 ベトナムの祝日ではないですよね。9月7日について聞いたことがないんですが、何の日ですか?

ソン このVOV、ベトナムの声放送局の開局記念日なんです。

山崎 それは失礼しました。覚えますね。

ソン はい(笑)。今年は開局70周年なんですよ。1945年の9月7日に、VOVはラジオ番組の放送を開始しました。ベトナム語による国内向け放送と英語、フランス語、広東語、エスペラント語による海外向け放送でした。内容は主にニュースと歌番組でした。

山崎 初めはラジオだけだったVOVですが、70年を経て、今はラジオ、テレビ、新聞、新聞はインターネットでの電子版もあるんですね。マルチメディアカンパニーですが、これはベトナム唯一ということなんですよね?

ソン そうです。番組の内容も幅広くなりました。政治・経済から教育・エンターテイメントまで豊富に扱っています。開局時のスタッフは数十人でしたが、現在では4千人近くになっています。

山崎 今日のハノイ便りは、初期のVOVを支えたスタッフの話題ですね。70年という長い間には、たくさんのスタッフ、世代の違うそれぞれの人たちがVOVで活躍したと思います。特に、戦時中は命がけの仕事だったそうです。放送を出し続けなければという使命感があったんでしょうね。

ソン そうですね。1945年9月2日に独立を宣言したベトナムは、翌年1946年12月19日、フランス軍と全面衝突。第一次インドシナ戦争に突入しました。VOVはハノイが激しい戦場になると考えて、ハノイの中心からおよそ25キロ離れたところにあるチャム洞窟に前もって放送設備を移しました。

山崎 いわゆる疎開ですね。

ソン はい。戦争が勃発した翌日の12月20日、VOVはチャム洞窟から、臨時政府のホーチミン元主席の全面抗戦宣言を放送しました。全国民にフランス植民地主義への抗戦を呼びかけたんです。「我々は全てを犠牲にしても、決して国を失わず奴隷にもならない」という有名な言葉はこの時に発せられました。

山崎 先月にはチャム洞窟で、記念碑の竣工式が行われたそうですね。

ソン はい。その式でVOVのグエン・ダン・ティエン会長は、「VOVはいかなる状況にあっても、チャム洞窟をはじめとして14回も局の場所を変え放送を続けてきた」と話しました。

戦時中、VOV放送を絶やさないよう力を尽くしたスタッフ - ảnh 1
チャム洞窟で行なわれた記念碑の竣工式

山崎 放送を絶やさないというのは、全VOVスタッフの思いだったんでしょうね。戦時中、苦しい状況の中、VOVは洞窟、森林、山などから1日も休まずに放送を送出してきたということです。

ソン また、ベトナム戦争では、VOVはアメリカ軍から激しい空爆を受けました。1972年12月19日の早朝、ハノイのメーチー送信所は無差別空爆を受けて、送信タワーや送信機が破壊されるなど大きな被害をうけました。その時には、9分間にわたって放送が中断されました。しかし9分後には、予備の送信所から放送が再開されたんです。

山崎 激しい空爆でも、放送が9分間しか中断されなかったのは奇跡と言えるかもしれませんね。当時の記者やエンジニアなどVOVスタッフの思いの賜物ですね。その時の技術担当だったダン・チュン・ヒエウさんは、今でもその時のことをよく覚えていると言います。

(テープ)

「アメリカ空軍が北爆を行った夜、私は出勤でした。当時のVOV会長もその夜、本部にいました。そして会長から電話があったんです。メーチー送信所が破壊された、どうしたらいいのか、と。私はバックアップの計画通り対応します、と答えました。一般の人たちは送信所が空爆を受けたことを知りませんでした。9分後に予備の送信所から放送が再開したからです。VOVスタッフの多くもその事実を知りませんでした。バックアップについては、機密事項だったからです。」

山崎 ヒエウさんは今も、当時のラジオやタイプライター、同僚と写った写真などを大切にしています。戦時中、命がけで働いたヒエウさんのようなスタッフにとって、VOVは自分の家、我が家のようなもので、当時の仕事はいつまでも忘れられないものになっているようです。

ソン そうですね。1956年にVOVに入局したチャン・ダック・ロックさんは、アメリカ軍の空爆は毎日のように行われていたものの、VOVの記者や技術者は、仕事に集中していたといいます。

戦時中、VOV放送を絶やさないよう力を尽くしたスタッフ - ảnh 2
戦時のメーチ送信所

山崎 着るものも食べるものも不足していた時代に、みんな、いい記事を書いていい番組を作るためにはどうしたらいいのかということしか考えていなかったということなんですね。ロックさんは、自分が書いた原稿が放送に採用されると、いくら疲れていても元気になったそうです。そして、すぐ次の原稿を書き始めたと話します。

(テープ)

「当時は労働時間という概念を持たずに、一日中働いていました。原稿を書いては、次々に他の記事に取りかかるという具合です。息もできないほどの原稿作成、とよく冗談を言っていましたね。よく働きましたが、給料とか待遇とか、そういうことは全く考えなかったです。」

山崎 当時の北ベトナムにいたVOVスタッフも厳しい状況の中で仕事をしていましたが、南ベトナムのVOVスタッフは、それ以上に過酷で危ない環境にいたようです。6年間、南ベトナムで仕事をした記者のフイ・ランさんは、毎日、山や川を越えて取材に行ったということです。

ソン ランさんは、敵の掃討作戦を何回受けたか覚えていないそうです。それだけ多かったということでしょう。特に、1969年から1970年にかけては、大規模な掃討作戦が行われて、現在のタイニン省にある当時のVOV南部支局、いわゆる「解放放送局」は数ヶ月の間、包囲網の中にありました。しかし、記者たちはこの包囲網から抜け出して、取材を続けていました。

山崎 犠牲になった記者もいたということですが、みな、南ベトナムの人々の戦いを克明に知らせたいということから、自分の命も顧みず、仕事に没頭したそうです。南ベトナムの人たちがVOVの番組を聞き続けていたことが大きな励ましだったとランさんは話します。

(テープ)

「南ベトナムでの戦いはとても激しいものでした。記者は休まずに原稿を書くのが普通でした。走りながら書いたりするほどでした。敵の掃討作戦では、自ら防空壕を掘ってその中で原稿を書きました。ハノイに原稿を送った次の日に、自分の記事が放送されるととてもうれしかったですね。」

山崎 平和な時代に生まれ育った世代、私もそうですが、いくら想像しても、戦争の苦しさなどを十分に理解することはできないですね。

ソン そうですね。戦時中を生き抜くだけでなく、精一杯仕事をした先輩方は、本当にすばらしいと思います。そういった人たちの思いを忘れずに、仕事に取り組んでいこうと思います。

山崎 はい。では、おしまいに一曲お送りしましょう。「~」です。

(曲)

「~」をお送りしました。

今日のハノイ便りは、初期のVOV、特に戦時中、放送を絶やさないよう力を尽くしたスタッフについてお伝えしました。それでは、今日はこのへんで。

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