ベトナムに明るい未来を与えたホーチミン主席


今からちょうど105年前、つまり、1911年6月5日、ホーチミン主席は、救国の道を求めて、当時のサイゴン(現ホーチミン市)を流れるサイゴン川のニャーロン港を出航しました。その時、ホーチミン主席は、フランスの支配下にあったベトナムに独立を取り戻すという決意を持って国外へ出発したのです。その30年後、ホーチミン主席はベトナムを明るい未来に導く道のりを持ち帰りました。

ベトナムに明るい未来を与えたホーチミン主席 - ảnh 1
20世紀の始めにとったニャーロン港の写真

決意を固める

ハノイ市内のホーチミン博物館のグエン・トゥイ・ドク館長代理によりますと、当時、フランスの支配下にあったベトナムの人々が苦しい生活を送っているのを見て、民族解放の決意を固めたホーチミン主席は、フランスを始め、西側諸国の現状を把握した上で、民族を解放する道のりを見つけられると思いました。ドク館長代理は、こうしたホーチミン主席は、愛国心を抱えて外国へ行ったと述べ、次のように語りました。
(テープ)

「ホーチミン主席の最も重要な荷物は愛国心でした。その愛国心は家族の伝統によって培われました。救国の道を探るとき、ホーチミン主席はいつも、民族と国の利益を第一にして、ベトナムが世界各国と肩を並べられるようにするという夢を持ってチャレンジしました。また、庶民と労働者の権利を基盤とした革命理念で、人間と各民族が幸せな生活を送る権利について深く認識されました。」

国と民族の利益を第一に

一方、ハノイ国家大学のヴ・ミン・ザン教授によりますと、ホーチミン主席は外国で数え切れないほどの困難を乗り越え、救国の道を探る過程にありながらも一度も諦めたことがなかったと明らかにしました。その力は愛国心から生まれたとしています。ザン教授は次のように語りました。
(テープ)

「ホーチミン主席の救国事業の成功を決定した要素は「民族」という言葉にあります。1920年に行われたフランス共産党の設立を目指す会議で、ホーチミン主席は、植民地を守る方針を打ち出したマルクス主義に支持の声を上げました。いくらいい主義であっても、もし植民地を守らなければ、ホーチミン主席の心をキャッチできなかったでしょう。つまり、ホーチミン主席にとって一番重要なのはやはり民族なのです。」

30年間外国で救国の道を探ったホーチミン主席は、社会主義と密接につながる民族独立はベトナムにとって唯一の救国の道だと認識しました。この道のりにたどっているベトナムはかつての民族解放事業と現在の建設発展事業において多くの成果を収めています。

報道・宣伝学院のレー・ディン・ナム博士は、ホーチミン主席が逝去してから47年経った現在でも、ホーチミン主席の愛国心と思想は現在もなお、いい勉強であると明らかにし、次のように述べました。
(テープ)

「ベトナム共産党はホーチミン思想の役割について早くから認識してきました。そして、ホーチミン思想のほか、ホーチミン主席は道徳の模範であるともよく知っています。そのため、ホーチミン思想とホーチミン主席の道徳を大切にして、社会全体に普及させています。」

ホーチミン主席が救国の道を探るため船で国外へ出航した1911年6月5日はベトナムの歴史において重要な節目となっています。その日は、ベトナムに明るい将来を与えるスタートであるといえるでしょう。


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