愛国者ファン・ボイ・チャウの日本での足跡(上)

愛国者ファン・ボイ・チャウの日本での足跡(上) - ảnh 1

静岡県袋井市郊外の緑あふれる畑に囲まれた常林寺に、堂々 たる石碑があります。その石碑には、次の文章が刻まれています。

「我らは国難のため扶桑(日本)に亡命した。

公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。

思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。

ああ今や公はいない。

蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、我らの気持ちを、

どのように、誰に、

訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。

大正七年(一九一八)三月 越南光服会同人


愛国者ファン・ボイ・チャウの日本での足跡(上) - ảnh 2
ァン・ボイ・チャウ(前方の右から2番目)


1904年4月、ファン・ボイ・チャウ(Phan Boi Chau)と数人のベトナム人儒者は、当時ベトナムを支配していたフランスとの戦いに新しい道を探るため、維新(ズイタン)会を立ち上げました。1905年、日本に来たファン・ボイ・チャウは、東遊(ドンズー)運動を始め、祖国の独立を取り戻す目的で、愛国心のあるベトナム青年を日本に留学させ、啓蒙・訓練しました

しかし、日本政府は、フランス政府の要請を受けて維新会の活動を禁じ1908年秋、日仏同盟締結で日本政府から東遊運動に対する解散命令。これにより多くの留学生は日本を離れざるを得なかったです。残ったファン・ボイ・チャウは、困難を乗り越えながら同志を探したところ、静岡県東浅羽村梅山出身の医師で知識人の浅羽佐喜太郎と知ります。ファン・ボイ・チャウは、援助を求めたところ、浅羽医師から

「手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします」と書かれる手紙とともに1700円(当時の平均月給の100倍近く)が届けられました。

東遊(ドンズ)運動の研究者であるチュオンタウ(Chuong Thau)教授はファン.ボイ.チョウ氏の革命事業について次のようの語りました

(テープ)

「ベトナム近代的史を見れば、フランス軍がベトナムを侵略した1885年から19世紀末にかけて、国内でのフランスに抵抗するすべての蜂起は失敗に終わりました。それらの指導者の殆どは儒者や愛国者であり、その中にファンボイチョウがいました。彼は救国の道を海外へ向けたのです。彼の提唱により、1905年から1009年まで、東遊(ドンズー)運動が活発に行われ、ベトナム歴史の輝かしい節目となり、抗仏闘争の初期とホーチミン思想革命時期を結ぶベトナム革命歴史の中継ぎともなりました。」

リスナーのみなさん、この話はまだ途中ですが時間が来ましたので今回はこれで終わります。続きはまた来週。ごきげんよう。

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