伊藤幹三郎さんからの投稿

昨年11月の「さようなら マイさん」の訃報記事を受けて古くからVOVと関わりのある大阪の伊藤幹三郎さんが、日本ベトナム友好協会大阪府連合会機関紙『日本とベトナム』(12月15日付)に投稿されたのでご紹介します。

 

「私がハノイ放送で仕事を始めたのは1969年の年末近くで、当時日本語放送では、レ・バック・バンさんとグェン・ティ・トゥエットさんの二人の女性が頑張っていました、二人とも家族は中国雲南省(*)に住まいしていましたが、中国出身なら漢字に強いだろうという理由で《ハノイ放送》にスカウトされたと聞いています。今から当時のトゥエットさんの年齢を推測すれば、24-25歳ぐらいでなかったかと思います。

単なる通訳ではないのです。漢字に強いというぐらいで日本語放送に携わらせるのは、当時の放送局幹部も甘いのではないかと思いますが、そのハンディを乗り越えて、2―3年でアナウンサーになったというのは敬服に価します。アナウンスだけではありません。原文の翻訳にも加わっているのです。戦時中のハノイは生活も厳しく、二人とも雲南省に一時帰郷して帰った時には、青白い顔色が日に焼けて健康そのものでした。口の悪い中村さん(当時の助っ人でルオンディンクア夫人)が、「白い雪(バック・バン)とか雪(トゥエット)とか厚かましい名を付けて、二人とも真っ黒ではありませんか」と言ったのを思い出します。逆に言えば、それほど当時のハノイの生活条件は厳しかったのです。

私は3年ばかりのハノイ生活でしたが、数年後の戦争末期、放送局も当時のハタイ省に疎開し、最後の苦闘の時期だったでしょう。その後再開したのは戦後十数年経ってからで、当時、トゥエットさんは日本語放送の責任者になっており、貫録も十分でした。日本語の話しぶりも昔とは段違いでした。

2001年、彼女が大阪へ来た時、私の家内と3人で話したことがあります。小松さんなら(**)、もっと詳しいこともご存じなのでしょう。

私は80歳にもなり、当時の事も往時茫々ですが、ご冥福を祈りたいと思います。」

* 植民地時代、フランスが昆明からベトナムへ鉄道を建設した事で、中国との関係が険悪になるまで雲南省にはベトナム人が相当数居住していたはずです。

** 小松さんからは、「マイさんはベトナム戦争が激化していた1965年に入局し、定年退職するまでの35年間を日本語放送部門で通訳、アナウンサー、後進の育成面で貢献してきました。2001年の退職時には日本のリスナーと協会のマイさん歓迎実行委員会に招待され、一ヶ月間、北は北海道・函館支部から秋田、わらび座、宇都宮、東京、大阪、神戸、九州・大分まで、各地のファンと交流を行ないました。安らかにお休みください。合掌」との文章が本部宛に届けられています。

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