広島の記憶
8月6日は、日本の広島に原爆が投下されてから68年となる「原爆の日」です。1945年7月、アメリカ政府は、広島や長崎をはじめ、日本への原爆投下命令を正式に発令しました。広島が第1標的に選ばれた理由は、川と山に囲まれた地形で原爆の破壊力を探るのに適し、軍事基地が集中し、市内に連合軍の捕虜収容所がないと思われたからです。こうして、広島の運命は決まりました。
1945年8月6日の午前8時15分、強烈な爆発音が広島の静かな空間を破りました。原爆が落とされた直後に広島の街は焼き尽くされ、爆心地から半径2キロ以内にいた人々は死亡し、住宅、学校、工場などは完全に破壊されました。1945年末まで、死亡・行方不明者数は14万人、当時の広島市人口の半分に相当します。
毎年のこの日に、広島市の平和公園で、原爆が投下された午前8時15分、平和の鐘が打ち鳴らされ、数千人の参列者が黙とうし、原爆で亡くなった人たちを追悼します。そして、この日は、日本人だけでなく、平和を愛する世界の人々の記念日ともなっています。
特に、長い戦争による深刻な被害を受けたベトナム人にとってこの日は深い意味があるといえます。1965年にn生まれの私は高校の歴史教科書で知りました。その中に書いてある「この日は人類の最も暗い一日だ」という文章は今までもまだ覚えています。あれから68年が経ちましたが、ベトナム人の若者もその痛みを深く理解しています。
ハノイ出身の生徒ハーソンさんは次のように話しています
(テープ)
「テレビや、本、母親から聞かせて、広島原爆当時のことを知りました。とてもひどいですね。ベトナムもアメリカ軍の空爆や枯葉剤などで恐ろしい被害を受けたので、戦争の残酷さを心に刻んだかもしれません。今日の子供たちにはその苦しみを味わってほしくない。世界の永遠な平和を願ります」
今日の広島市民は、故郷から全世界の人々に送る平和宣言の内容を心に深く刻んでいます。1945年8月6日の原爆によるほのおから燃え続けているという火は、平和のため核兵器の廃絶を呼びかけるシンボルとして、広島の人々によって長い間ずっと守り続けられています。この火は次世代まで燃え続けることでしょう。