ボ・グェン・ザップ将軍はホーチミン主席の優れた学生であり、20世紀の人類の才能のある将軍でした。将軍の生涯は民族解放事業に繫がっていました。民族独立闘争におけるザップ将軍の知恵と本領、才能、多大な苦労は、ベトナム民族の歴史に永遠に刻まれます。
生前、ホーチミン主席とベトナム共産党の指導の下に、ザップ将軍は現代的な設備を備えた外敵を打ち破り、画期的な戦いの形成に寄与してきました。
ベトナム共産党歴史研究院院長のグェン・マイン・ハー博士は次のように語りました。
(テープ) MANH HA
「ザップ将軍は長年にわたり軍隊の活動に繫がっており、全軍から軍隊の最高指導者として見なされていました。ザップ将軍について語るならば、20世紀における世界で最も強固な侵略帝国主義と植民主義を打ち破った輝かしい戦功を遂げた軍事指揮者であることを思い出します。ですから、ある外国の歴史研究者は『ザップ将軍はベトナムと全世界における近代的な世界の形成に寄与する人々の一人であった」と評価したのです。』
1954年のデエン・ビェン・フー作戦で、「この作戦は極めて重要である。勝つはずだと思えば戦うし、勝つはずがないと思ったら戦わない」というホーチミン主席の言葉に従って、ザップ将軍は「早急な戦い、早急な勝利」から「着実な戦い、着実な進行」という方針へとシフトする事にしました。デエン・ビェン・フー作戦勝利はザップ将軍の才能、知恵、軍術を示したものです。
デン・ビェン・フー作戦に参戦したことがあるズン・チ少将は次のように明らかにしています。
(テープ) dung chi
「当時、私は小隊長でした。ザップ将軍が最も優れていると思ったのは、戦術を変えたことです。その時、私は全く分かりませんでした。ただ、『軍隊を早急に後退させよう』という命令を受けると、撤退させました。その後、A1(エーワン)の丘を再度偵察すると、『着実な戦い、着実な進行』及び敵の支援と負傷兵搬送を妨げるために塹壕(ざんごう)を掘るというザップ将軍の決定は正しかったということが分かるようになりました。」
また、アメリカ帝国を戦う抗米救国闘争では、ザップ将軍はチュオンソン山脈に戦略的支援道及び海上道路を開くことを指導していました。ザップ将軍の元で助手をしていたホアン・ミン・フォン大佐は次のように語っています。
(テープ) MINH PHUONG
「南部での戦争が日増しに拡大したことにより、車両専用道(どう)を拡大させざるを得ませんでした。しかし、敵が空軍を増強する中で、陸上での輸送は深刻な痛手(いたで)もありました。そのため、歩道からの輸送をしなければなりませんでした。その困難を克服するために、ザップ将軍はラオスを経由する車両専用のチュオンソンルートを開く事を決定しました。このルートには森を貫く部分もあったので、筒形(つつがた)の道とも呼ばれました。その道は敵も戦闘機も発見できなかったですよ。」
戦術の才能を持つ傍ら、ザップ将軍の人間的性格は常時に優れていました。彼は、勝利を勝とれるが犠牲を最小限に抑制しなければならないことにも配慮していました。そして戦場では常に兵士を激励していました。
ベトナム軍事歴史研究院のブ・タン・ボン大佐は次のように明らかにしました。
(テープ) BONG
「戦場への最高指揮者、特にボ・グェン・ザップ将軍の出現は幹部兵士の思想や感情、意志に大きく影響しました。彼は、幹部兵士を見舞うだけではなく、具体的な指導もされました。」
多くの人々はザップ将軍を民族の優れた将軍と呼んでいますが、ザップ将軍自身は「大海の一滴に過ぎない」と謙遜しました。また、ザップ将軍は全ての戦功はホーチミン主席とベトナム共産党の優れた指導に頼ったものだと言いました。特に、「ベトナムの最も偉大な大将はベトナム人民である」と述べたことです。
ボ・グェン・ザップ将軍の一生は20世紀におけるベトナム民族の救国事業と結び付いています。ザップ将軍の戦功と人格は永遠に存在し続けることでしょう。